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初代タウンゼンド侯爵・第4代タウンゼンド子爵ジョージ・タウンゼンド(, 、1724年2月28日 - 1807年9月14日)は、イギリスの陸軍軍人、政治家、貴族。 オーストリア継承戦争や七年戦争に従軍した。とりわけ七年戦争における1759年のエイブラハム平原の戦いでは英軍の総指揮官であった。ホイッグ党の政治家としても活躍し、アイルランド総督(在職1767年-1772年)や(在職1772年-1782年、1783年-1784年)を務めた。軍人としての最終階級はである。 1764年に父から第4代タウンゼンド子爵の爵位を継承し、1787年にはタウンゼンド侯爵に叙される。 == 経歴 == 1724年2月28日、第3代タウンゼンド子爵とその妻オードリー(旧姓ハリソン)の長男として生まれる。 イートン校を経てケンブリッジ大学へ進学。1743年に陸軍に入隊〔。1745年4月にはのとなる。 1743年6月のオーストリア継承戦争のデッティンゲンの戦いで初の実戦経験を得た。1746年から1748年にかけてフランドルで戦う英軍の指揮を執るカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスの副官(aide-de-Camp)を務めた〔。1746年4月ののカロデンの戦いでもカンバーランド公の副官を務めた(この戦いでカンバーランド公は虐殺者として悪名をはせた)。1747年2月にはへ移籍し、同年7月にはオーストリア継承戦争のに参戦した。 また同年から爵位を継承する1764年までから選出されてホイッグ党所属の庶民院議員を務めた〔。1748年2月25日に第1近衛歩兵連隊の部隊長(captain)となり、中佐(lieutenant colonel)に昇進した。1750年にカンバーランド公と対立したことで一時軍務を離れることになり、政治の仕事に集中した。1751年にはカンバーランド公の軍人としての能力の低さを批判するパンフレットを書いている。庶民院議員として1757年民兵法(Militia Act 1757)の成立に貢献した。 1758年4月に軍務に復帰。同年5月6日に大佐(colonel)に昇進し、1759年6月にはの連隊長(colonel)に就任するとともに七年戦争で旅団指揮官として戦地カナダへ派遣された。 ケベックでジェームズ・ウルフ大将の指揮下にあったが、1759年9月13日のエイブラハム平原の戦いでウルフが戦死したため、代わって英軍の指揮をとり、同年9月18日にケベック・シティーの降伏を受諾した。1759年10月にはの連隊長(colonel)となり、1760年には枢密顧問官に列する〔。1761年3月6日には少将(major general)に昇進した。同年7月にはに参加した〔。 1762年5月、に際してポルトガル防衛のためイギリス・ポルトガル連合軍の師団の指揮を執った〔。 1763年3月にはにおいてに就任。1764年5月には父の死によりタウンゼンド子爵位を継承し、貴族院議員に転じた〔。1767年8月にはでアイルランド総督に就任。アイルランドにおける汚職撲滅と経済改善を目指した。 当時アイルランド議会はと呼ばれる有力者に支配されており、彼らを抑制するために総督府ダブリン城に集まっている「城内派(Castle Party)」を支援・育成しようとしたが、議会操作請負人の激しい抵抗を受けて改革は十分な効果をあげなかった。アイルランド人民からの人気も全く上がらなかった。彼が嫌われていたのはイギリス本国に忠実で本国の都合でアイルランドを統治しようとするためだった。1770年4月30日に中将(lieutenant general)に昇進した。1772年9月にアイルランド総督を退任した。 1772年10月にはでに就任。さらに1773年7月にはの連隊長となった。1782年に第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースが首相となると補給庁長官を辞した。1783年に内閣が成立すると補給庁長官に再任されたが、翌1784年に小ピットが政権を握ると再び辞職した。 1782年11月26日に大将(general)に昇進。1787年10月27日にグレートブリテン貴族爵位タウンゼンド侯爵に叙せられた。1792年2月にはに就任。 1794年には、翌1795年7月にはに就任した。1796年7月30日にはに昇進した。 1807年9月14日にノーフォークの自邸で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョージ・タウンゼンド (初代タウンゼンド侯爵)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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